憲法21条訴訟

 矢澤団長の意見陳述


            意見陳述書
 
                     2009年2月23日
 東京地方裁判所民事33部 御中    
                     弁護士 矢澤磤治

 私は、この訴訟が日本国憲法の下で基本的人権とりわけ集会の自由と表現の自由を擁護するために、司法が果たすべき役割と歴史的意義を中心として意見を陳述いたします。

 実は、私は法科大学院の教員であり、大学に併設されている今村法律研究室の室長でもあります。ここで今村とは、今村力三郎のことであり、かの大逆事件をはじめとする多数の政治的な刑事事件を担当した在野の弁護士であります。私が、今村を引用いたしましたのは、今年は大逆事件が発生した100年目の節目を迎えるからであり、また、この事件が引き金となって思想弾圧を貫徹する契機となったからであります。東京、神田錦町で発生した赤旗事件に次いで、天皇暗殺のために爆裂弾を投げ込む目的でそれを製造をしていたとする明科事件の発覚に派生してでっち上げられたのが幸徳秋水大逆事件です。後に、当時の大審院次席検事であった平沼騏一郎も自認するように、この事件は、ある大きな政治目的を実現するための、時の権力者により創り出された壮大な冤罪に他なりません。この「大きな政治目的」こそ、社会運動の弾圧であり、特定の思想の持ち主を掃討することに他なりません。権力者は、そのために、雑誌の発行を停止させ、演説会の開催を不可能にさせ、さらには、こうした思想や考え方を有しその運動をする本人のみならず家族まで尾行するなどの苛酷な監視と取締そして弾圧をますます強化することとなります。原告がわが国の公安警察による追尾、監視そして盗撮の違法性を主張する本件訴訟事件の奈辺には、特高警察の行動と同質的な政治目的が見て取れると判断したします。
 
 幸徳大逆事件の後、間もなく、「公共の安寧秩序」の保持を名目に、取締当局者による特高警察の端緒となる「特高課」の機構が設置されることになります。そして、治安維持法の制定とその改悪化による治安政策の徹底ぶりは、皆様もご承知の通りであります。関東大震災時の亀戸事件も、筑地署における小林多喜二の拷問死に象徴される政治運動に対する大弾圧も、現在でも清算されていない「横浜事件」のフレーム・アップも、天皇制と国体を堅持するために「権力に抗する者」を殲滅したほんの一例に過ぎません。こうした権力者が行きつく目的こそ戦争でありました。「満州事変」後の「軍事的=警察的反動支配」がそれを如実に示してており、その支配が太平洋戦争と呼ばれる悲惨な結果をもたらしたことについては、多言を要するには及ばないと思われます。

 我々は、多くの国民と無辜の民の犠牲により、敗戦後に日本国憲法を得ることができました。この憲法こそ、世界人権宣言が謳い、そして国連人権規約にも遜色のない基本的人権を取り込んだすばらしい贈物であったはずです。その内容として、民主主義と自由主義の基礎をなす、自由権の一つである集会の自由があります。世界の歴史を眺めますと、この自由権こそ、時の権力に反対する人々が意見や思想を表現するために不可欠なものであり、だからこそ、権力者はそうした集会の開催を制限して、活動を抑圧することに汲々とし続けてきているのです。本件訴訟の原告をはじめとする集会の主催者と参加者は、『 とめろ! 「戦争のできる国」づくり 許すな! 貧困の強制 』また、『 断ち切れ! 核軍縮競争と大戦の危機〈戦争と貧困強制〉に抗して 』というスローガンの下で、平和を希求し、経済的な弱者の救済という政治的な目的を共有するための集会を開催しようといたしました。まさしく、集会の自由、すなわち集会を主催し、また、集会に参加することこそ、個人が表現の自由を具体化する方法や手段であり、そして、政治的活動の自由を確保することにより、参政権の前提となる政治に関する意思や思想を形成し表現することに他なりません。
 
 地下生活を送ることを余儀なくされながらも、文化運動の再建に奔走しはじめた小林多喜二は、「暴圧」そのものを「戦争とファシズムを強化しつつある軍事的=警察的反動」と断言し、「戦争が外部に対する暴力的侵略であると同時に、国内に於いては反動恐怖政治たらざるをえない」と強評しました。
 
 小林多喜二の時代認識は刮目すべきものであります。治安維持法違反事件である京都学連事件などにおいて特高刑事が跋扈していた当時の状況とわが国の現況は、まさしく酷似しております。当時は、満州事変から太平洋戦争へ、昨今では、アメリカの論理で故なく進められたイラク戦争そしてアメリカの敗北と挫折です。そして、わが国は、自衛隊平和憲法を踏みにじるそれに左担してきました。その背後では、陸上自衛隊情報保全隊による戦争反対運動に参加する者の監視活動、立川などのビラ配布に対する狙い打ちなどの弾圧が続いております。警察と検察は、射水志布志での違法捜査をなし冤罪事件をでっちあげました。悲しいことに、司法(裁判所)が無批判的に捜査・逮捕令状を発布し、有罪判決を下すなどしております。そして、誰もがその責任を問われていないのです。今や、わが国では、あの特高警察により行われてきた抑制と弾圧のための「監視と取締」が行われているということであります。本件訴訟において、警察庁警察官が蝟集して、公道においてのみならず第三者たる私人の経営する店舗から、集会に参加する者に対して、監視と盗撮を実施しました。これは、東京都が既に準備書面で自認するところであります。

 戦前においては、天皇制の下、明治帝国憲法治安維持法などが存在し、軍・憲兵に司法も加えた挙国一致の体制により、国民の思想、信条、表現、集会の自由が弾圧されてきました。しかし、現在のわが国の法的土壌は、決してそのようなものではあり得ません。日本国憲法と言う世界に誇る平和憲法の下で、個人の基本的人権が保障されているからであります。そして、そうした憲法に定められた人権の実効的確保を保障し遵守する義務が公務員に課せられております。
 私は、国民の1人としても、司法に、裁判所に、そして裁判官諸氏に是非要望をいたしたい。平和憲法を遵守していただきたい。我々とともに基本的人権を擁護していただきたい。そして、公安警察による特高まがいの尾行、偵察そして盗撮という違憲・違法な行為に対して、司法による行政のチェック機能、司法の役割を果たしていただきたい。この役割を果たすことが、本件訴訟における司法の使命であり、集会の自由と表現の自由にかかる司法判断が歴史的な意義を有するものであると確信するところです。

 オバマ大統領が就任するに及び、「「法の支配」の回復がアメリカの『変革』である」と言及され、「最高裁判事の中で、オバマ政権に期待される『変革』を最も体現しているのは、実は最高齢のスティーブンス(John Paul Stevens)氏だ」と云われていることを仄聞しました。私は、わが国にも、連邦最高裁判所の判事のような法の支配の守護者の存在を期待したいのです。スティーブンス判事は、1975年共和党G.フォード大統領により最高裁入りをしました。前回の大統領の選出時、フロリダ州での開票混乱でブッシュ氏の勝利を認定する最高裁判決では厳しい反対意見を書きました。かれは、「この大統領選挙の勝者は永遠に分からないかも知れないが、敗者ははっきりしている。この国での『法の支配』の公正な守護者としての裁判所に対する信頼だ。」と。

 基本的人権の侵害が争点である本件訴訟において、わが国にも、日本国憲法を遵守する「法の支配」の、単なる番人ではなく、「公正な守護者」がいて、裁判所に対する国民の信頼が確保されることを切に祈念しています。最後に、我々は、当裁判所がこのような意味での「法の支配の公正な守護者」であると信じていることを述べて、私の意見といたします。