三鷹事件と普天間基地問題

 専修大学今村法律検空室室報NO.55(2011.12.15)で
  「三鷹事件普天間基地問題の経緯」を掲載した。
 発行部数が少ないため、ここに掲載することした。
                        矢澤磤治
 一部、誤植がありそう。 
   

  三鷹事件普天間基地問題の結線

法科大学院教授・弁護士 矢澤磤治  
 
 2011年11月10日に三鷹事件の再審請求の申立てが東京高裁になされるという。是非、再審開始決定と、無罪判決を聞きたい。本稿は、占領下で発生したこの三鷹事件と今なお米軍の基地に虐げられている沖縄の人々を巡って、事件と基地問題が奈辺でどのように結びついているかを試みたものである。

 ポツダム宣言の受諾と戦略の要としての沖縄の位置づけ
 1945年9月2日の降伏文書の調印により、日本政府および国民は、無条件降伏=平和的占領を内容とするポツダム宣言の諸条項の履行につき全権を有する連合国最高司令官の権限の下に置かれることとなった。占領政策のために必要があれば、占領軍の戦闘部隊はいつでも行動が起こせるようになっていた。
 極東軍最高司令官は、日本本土の占領軍に加えて、沖縄を占領した在留琉球陸軍部隊、在マリアナ・小笠原陸軍部隊などを統括した。ここで、特筆すべきことは、沖縄占領は、日本本土とは異なり、連合国最高司令官の任務分担ではなく、極東軍の担当として、一応機能上区分されていたということである。「沖縄はアメリカの戦略の要であり、アメリカ以外の連合国に口出しさせないために単独占領を意図したものであった」。かくして、沖縄の占領から生ずる問題に対処するために、1948年7月、極東総司令部内に琉球軍事政局が設置された(竹前英治『GHQ』(岩波書店、1983)62頁)。
 「経済安定九原則」指令と安定不況
 極東委員会は、平和憲法の制定、民主的な諸改革を進め、非武装中立をしようとしていたマッカーサー司令官にとって、反共防波堤の構築を必要とする国際環境の中で、わが国の民主化政策を見直し、再軍備、経済復興など従来の政策の転換を求める対日基本政策が策定した。マッカーサー司令官はそれに反対した。アメリカ政府は、占領費の大幅削減を行い、。マッカーサー兵糧攻めにする策に出た。しかし、極東委員会は、「経済安定九原則」指令を受け入れることを条件に兵糧攻めを解除したものの、これらの原則を実施するために来日したのがデトロイト銀行頭取のJ.ドッジ公使であった。
 ドッジは、「政府の援助とアメリカの補助金という竹馬の二本の足を切る」超均衡財政を実現しようとした。大蔵省原案の25%削減という暴挙である。その結果、わが国は「安定恐慌」と呼ばれる大不況に陥った。公務員が定員法により、民間労働者が企業整備の名目で多数首切り(馘首)されることになる。当時公社となっていた国鉄日本国有鉄道)でも、定員法に基づき、しかも、レッドパージを伴って、12万人余を超える空前の馘首が行われたのである。

 謀略の夏
 全国の国鉄のレールの上で怪事件が頻発する。まずは、下山事件である。著者は、薄々この事件の概要を把握していたと思い込んでいた時があった。しかし、この事件に関する書物『謀殺』(大野達三、岡崎万寿秀共著、三一書房、1960)を読みはじめ、愕然とした。後に、わが国で皮相的に論議される下山総裁の自殺か、他殺かの問題にとどまらないということである。敵対する者にはどのような手段がとられたかについて、歴史が繰り返されていると言うことであり、この手法=謀略にアメリカの本質を見ることができると思う。
 時は、1914年である。英仏とドイツとの間で第1次世界大戦が始まり、ヨーロッパでしのぎを削っていた折に、アメリカの参戦に対する反対運動が労働者組合の間で高まってきた。1916年、この植民地分割戦に参加したい資本家階級は謀略を用いた。この謀略事件はムーニー・ビリングス事件と呼ばれ、後に、1933年2月27日、ドイツ“ワイマール共和国”の首都ベルリンで国会議事堂が爆発を伴って炎上した歴史的な事件の手本となるフレーム・アップである。ベルリンでは、この謀略により、首相に就任していたアドルフ・ヒトラー共産主義者による武装蜂起の一環と断じ、反対派への無差別弾圧に乗りだし、敵対的権力を掌握し、以後10年余りに渡って続くナチス独裁の基盤を確立した。ここサンフランシスコでは、右翼が参戦デモをおこなっている所に爆弾が投げ込まれたのである。事件の犯人として、2名の労働組合幹部であり、平和運動家が逮捕された。警察は、この事件を「社会主義者」の計画的犯行であるとでっち上げ、労働組合に対する国民の反感と恐怖心を利用して、反動立法を制定し、戦争への道を開いたのである。犯人とされたムーニーは死刑、ビリングスは無期懲役を宣告されたが、23年後、カリフォルニア州知事は、二人を無実であるとして釈放した。奇跡的に、アリバイ証明となる、屋上に婦人といる写真が発見されて、無実の証拠となったのである(『謀略』3頁以下)。
 鉄路に纏わる数々の怪事件を語る前に、これらの謀略事件の発生後、わが国にはどのような体制が確立したかをまず検証しよう。GHQの指令・指示の下で、国鉄などの膨大な数の労働者を馘首し、教員からはじめられたレッドパージによる反共防衛により朝鮮戦争の道を開き、1950年警察予備隊を創設し、再軍備を可能ならしめたのである。また、連合国の占領体制から、現在のような完全に従属的なサンフランシスコ、安保体制への移行を進捗させた。
 これらの体制構築を目論見て、多くの事件が、謀略の夏に連続的にフレーム・アップされた。謀略事件は大別すれば、第1は、鉄路事件である。最初の鉄路事件である1949年7月5日の失踪から轢死に到る下山事件、7月15日の三鷹事件、8月17日の松川事件に始まり、全国的な規模で発生した列車妨害、レール爆破事件の一例である1952年2月19日の青梅事件(富山和子『姿勢への挑戦』(隣人社、1966)、7月29日の芦別事件(芦別事件を支援する会『芦別事件』(1976))などなどである。そして、今一つの類型の謀略事件は、多様である。共産党と民主団体を弾圧したい、できることならば構成メンバーを抹殺したいがための、1月26日に発生した白鳥警部射殺事件、4月30日に交番などへの爆破として知られている辰野事件(今崎暁己『伊那谷は燃えて−辰野事件その被告と家族』(労働旬報社刊、1972)、警察官による爆破事件である菅生事件(諫山博『消えた巡査部長』(昭和出版、1990)、『深夜の謀畧−菅生事件の真相』(日本共産党九州地方委員会、1957)、その後も宮操事件、大須事件(大須事件被告団/全国守る会・関根庄一編著『被告−大須事件の二十六年』(労働旬報社、1978))、自由党の代議士の暴漢による傷害事件である横川事件(『でっちあげ』(横川事件犠牲者救援会、1962))などなどである(全般的な著述として、難波英夫『一社会運動家の回想』(白石書店、1974))。
 
 三鷹事件勃発
 三鷹事件は、1949年(昭和24年)7月15日午後9時23分に、国鉄三鷹車庫で勃発した。車庫から7両編成の無人電車が暴走し、三鷹駅の下り1番線に進入した後、時速60キロ程のスピードで車止めに激突し、車止めを突き破って脱線転覆した。無人電車は、脱線転覆しながら線路脇の商店街などに突っ込んだ。男性6名が電車の下敷となり即死、負傷者も20名出る大惨事となった。

 竹内景助(1)−「空中楼閣」されど無期懲役
 この小稿で、筆者は、竹内景助が有罪が無罪かを真正面から詳細に論ずるつもりはない。無実であることは、自明であるからである。この事件については、清水良郎『三鷹事件−隠された戦後史の謎』(三一書房、1967)などの書物がある。つとに、同氏も記すように竹内単独犯行説などは、凡そ非科学的であり、竹内が冤罪の犠牲者であることは、最近でも、高見澤昭治『無実の死刑囚』(日本評論社、2009)や大石進「第九章 最後の大舞台三鷹事件」『弁護士布施辰治』(西田書店、2010)などにより、指摘され続けており、再審事件において、筆者は、検察官のシナリオの非科学性とこの司法判断の論理の瓦解が解明されると信じている。
 昭和25年8月11日判決で東京地方裁判所の鈴木忠五裁判官は、被告らの共同謀議、共謀共同正犯とする起訴事実を、「全く実体のない空中楼閣」と断じて、竹内だけを無期懲役とした。鈴木裁判長が竹内だけを断罪することも「空中楼閣」と言わざるをえなのであるが、実は、この時代状況の中では、このようにしなければならなかった切実な理由があったことも確かであり、この点については、後述する。とはいえ、検察官による控訴提起から破棄自判「竹内死刑」の判決に到るまで、竹内にも弁護人にも弁論の機会が1回も与えられなかったし、上告審の判決についても事情は同一であり、書面審査だけであった。竹内有罪の票決のための多数派工作もなされた上で、1955年6月22日に延期されていた最高裁の判決が下された(三鷹事件対策協議会『三鷹事件』1965、21頁)。竹内の上告が棄却された。七対八の票決であった。
 翌年、1956年2月3日に、竹内は、東京高裁に再審の申立てを行ったが、その後10年以上も放置された。総評の呼びかけの下、再審要請署名運動や亀井勝一郎らが発起人となって助命嘆願運動が併行して起こされていた(三鷹事件対策協議会『三鷹事件』)。申立て後10年もたった、1966年の秋となり、東京高裁が具体的に動きはじめたが、時既に遅しであった。竹内は、「脳腫瘍」に罹患していた。民間の医師との面会により脳腫瘍ではないかとの判断がなされたので、当局に外部の病院への転院と完全な治療を求めたが、当局は、竹内が「拘禁性ノイローゼ」であるとして、頑なにそれを拒否した。年開けて、1月13日、竹内は独房の中で倒れた。18日に死去した。享年45歳だった(小松『三鷹事件』262頁以下)。
 筆者は、実務をやっていて、痛ましくて激怒を覚える時がある。未決拘留者、確定囚さらには入国管理局に留置、拘禁そして収容されている人々への医療の確保が極めて杜撰で、欺瞞に満ちているからである。ある事件では、未決拘留者が、独房で脳梗塞で倒れたが発見が遅れ、拘置所の施設には専門医も不在であり十全な対応ができないのであるが、なかなか外部病院への転院を認めない。24時間も経てようやく転院が認められたが、意識不明の未決拘留者の片手には革手錠があり、ベッドにつながれていたのであった。後に、最高裁はこの者からの国賠請求を2対3の票決で棄却した。わが国に存在している無罪推定原則の実務はこのような状況であり、この原則の実効性の確保などないに等しいのである。
 竹内景助(2)『春を待ついのち −まさ子に送る手紙− 』
 竹内は、優しい夫であり、父親であった。ここでは、竹内景助が妻(まさ子)や5人の子供達に宛てたはがきを一葉掲載するにとどめることにする。感ずることのできる人は、この一文を詠むだけでも、竹内景助が無実であると確信するであろう(竹内『春を待つ命』18頁より引用)。

   イメージ
可愛いゝ美矢子(みやこ)のお下げに
リボンをつけてあげよう
蝶々もとんでいる春だから
オーちゃんと言って飛んで来る美矢子に
赤い大きなリボンをつけてあげよう

優しい襄(じよう)ちゃんのために
レコードを買ってあげよう
野も萌える春だから
ユーヤーと言ってねだる嚢ちゃんに
童謡のレコードを買ってあげよう

元気な俊(しゆん)ちゃんのため(ん)に
文化園へ出掛けよう
鳥もさえずる春だから
ンマンマと動物を呼ぶ俊ちゃんを連れて

おとなしい健一郎(けんいちろう)に
グローブを買ってあげよう
ボールもはづむ春だから
野球のために悲しさも忘れる健坊に
ボールも買ってあげよう

素直な芳子(よしこ)には
山葉のベビーオルガンにしよう
楽しい春の歌を哀しく奏(かな)でようこの子に
清楚なオルガンを贈ろう

みんな優しかったよ
みんな健やかに笑ったよ         
春だからまた山羊の仔(こ)を飼おう
本も読みましょう 写生にも行こう
(1951・4・30)

  
 

 竹内氏が子供達に寄せたはがき
 『春を待ついのち』より引用


 GHQと渉外事件
 三鷹事件第1審の東京地裁裁判長鈴木忠五が、竹内だけを無期懲役と処し、検察官の起訴事実を「実体のない空中楼閣」と述べたことは、ある意味で、英断であり、GHQ最高裁判所への最大の抵抗であると評価できるかもしれない。ある意味でとは、米国占領下における裁判所、裁判官への抑圧を考慮しての話である。
 米軍の占領下において、わが国の裁判所が、米軍の意向に反した判決を下すことはできなかった。のみならず、警察も検察も占領軍の指示・命令に従わないことは不可能であったからである。
 それらを示唆する記述を拾っていくと、「今も日本は米国の属国だが、当時は属国ですらなく、商品には、MADE IN OCCUPIED JAPAN と印されていた。JAPANは地理的概念にすぎず、国でなかった。今日のアフガンやイラク以下の、むき出しの暴力が支配する時代だった」(大石『弁護士布施辰治』296頁以下)。占領軍による暴力の例証として、サンデー毎日1954年10月3日号中の元警視庁捜査課長と同社記者との対談で、下山定則国鉄総裁の「死の2日前の午前3時にGHQのシャグナン中佐が下山宅を訪れピストルを突きつけて鈴木市蔵の解雇を迫った」ことが掲載されている。
 銃器を用いなくとも、わが国の司法は、何とでもできたのである。GHQの横やりで、最高裁長官でさえ自由に選出させなかった(山本祐司『最高裁物語』(上巻)(日本評論社、1994)79頁以下)。そして、GHQの強権をちらつかせて、片山首相に平野農相を罷免し、公職からの追放処分を画策した事件(平野事件)は、その象徴的出来事であった。しかし、東京地裁は、平野が起こした仮処分申請を認める決定を下す。驚いたのは政府である。直ちに閣議を開き、「平野事件の東京地裁決定は司法権による行政権の簒奪であり、重大な憲法違反であるとの声明を発表した。ここに現れるのがGHQのホイットニー将軍である。将軍は、三渕最高裁長官に、ある「指摘」をした。「総理大臣の決定は最高司令官の承認を得ているかぎり、日本の裁判所は裁判権を有しない」というのである。
 最高裁判所とその長官ですらこのてたらくであるので、他の下級裁判所とそれらの裁判官の言動は、GHQの意のままであった。再び、大石『弁護士布施辰治』によれば、「GHQから、あの裁判はこう判決せよ−と命ぜられる、私は地方の裁判所へ説得に出かけた。米兵にピストルをつきつけられて判決をした裁判官もいる。〈裁判の独立〉どころではなかった。暗い恥部だから最高裁にもあの当時の記録はない。僕ら(最高裁事務総長五鬼上堅盤)が始末した」(297頁)。
 二つの渉外事件 
 GHQの裁判への干渉は、枚挙の暇がないほどのであるが、さらに、二つの事件を取り上げる。第1は、大阪放出(はなでん)造兵廠横領事件である。この事件は、敗戦当時放出(はなでん)造兵廠長であった木下が、その兵廠の軍事物資をすべて中央の指令により平和産業に転換するために、大阪機工(株)に引き渡した行為につき業務上領罪であるとして起訴された事件である(和島岩吉『刑事弁護士−無実への弁論』(日本評論社、1986)262頁以下)。筆者は、GHQの裁判所に対する干渉の具体的な内容に、実を言えばあまり関心を持たなかった。しかし、この種の事件では、特に、GHQから捜索の禁止や中止命令がきたり、GHQの意向を伺って裁判を危惧している若き裁判官がいたことを知ることになる(藭余正義「若き判事補の目(1)」判例時報542号)。「大造事件にGHQの介入があって以来、ことに地方においては、渉外事件といえばかならず厳罰にしなければ……と保身の路に傾く裁判官が続出していると聞く。まさに裁判所の危機である(神余「同」(5))550号(本稿は、『若き司法官の歩み』(有信堂、1952)に収録されている)」。この事件では、和島弁護士も指摘するように、相当に勇気ある裁判官であったが、木下は有罪、執行猶予付き判決となった。そして、控訴審の途中、進駐軍は引き上げ、控訴審は無罪判決を下した。ここで、渉外事件とは、まさにGHQの関心事件であった。
 第2の渉外事件は、この度、筆者が解説して出版した『真相究明書』(花伝社、2011)に係る福岡事件である。この事件は、2人のブローカーが射殺されたが、そのうちの1人は戦勝国である中華民国人であった。しかし、石井健治郎による単純な過剰防衛ともいいうる大した事件ではない誤殺事件であった。本件が警察の予断していた架空軍服取引に便乗して計画をされた強盗殺人事件などという大袈裟なものでないことも、被疑者達の態度、供述等より推認されたはずである。ところが、取調べを進行するにしたがい、警察は、この事件が強盗殺人事件であるとの予断をもって捜査をなし、被疑者達を逮捕、取調を始めた。いまさらこの予断をあらためるなどということは警察の威信、沽券にかかわり、引っ込みが付かなくなった。このようにして、冤罪が創り出される羽目となり、2人が死刑囚となる。そして、西武雄は、死刑台で吊されることとなる。
 福岡事件では、第1審の判決言い渡し後、池田裁判長が、傍聴人である中華民国人の一団に対応した様子を西武雄は、以下のように記載する。
 「第1審の判決当日の池田裁判長の言動でございます。即ち、法廷に満員の中国人に向って、『中国人の方で、今日の判決について御意見のおありと存じますので、拝聴したいと思いますから、被害を受けられた方の関係のおもだった方だけにしていただくことにして7、8名位はいいですから、こちらに御出席下さい』と、満員の中国人傍聴席にいい、その中から10名位の中国人が、私たち被告人7名列んでいる前に列んでもらってから、裁判長、曰くに、『ただ今お聞きいただきましたように、西、石井は死刑に、その他の者にもそれぞれ最高の判決を言渡しましたので、これでどうぞ御了承下さい』というと、法廷の中国人たちが騒然となり、「2人だけの死刑ではダメだ、なぜ全員死刑にせんのか、判決をやりなおせ、こんなことでは納得できないから、総司令部に訴える』という。それで、裁判長は、『判決をいい渡した以上は、それをまたいい直すということは規定で出来ませんので、今日のところは、これで御了承下さい。というのは、裁判はこれで終了したというのではありませんから、次の高等裁判所になった時は、皆さんの御希望に添うように連絡しておきますから』という、裁判長の平身低頭の姿に、戦争に敗れたものの惨めさに同情は出来ましたけれど、裁判所は、事犯の真実を裁く神聖なところと信じていただけに、この異様な裁判劇には、目を見張って恐怖したものでした」。
 GHQの福岡事件への影響は、厳罰を実現するための唐突な裁判長の交代が見られる。第2審は、納得のいける人柄のいい島村という裁判長であったが、判決当日に、筒井という裁判長にかわり、1回の尋問もなく、いきなり判決が下された。
 「筒井裁判長に代わって、判決直前に、『本件裁判は、戦勝連合国の国民である中国人民共和国人の翁祖金氏等の殺害による強盗殺人事件であるために、連合国指令部に報告していたところ、日本側の裁判所で審理するように命令が来たが、この事件の判決は早急に出せよとのことを達せられたので、結審を急ぎますので被疑者もそうだが関係弁護人各位も協力してほしい』と。
 まさしく、これらの裁判長は、わが国の司法の独立を意に感せず、戦勝国民に迎合する行為であり、このことからも福岡事件の裁判の不正と暗黒性を理解できるというものである。警察はGHQにお伺いを立て、司法もその意に添うように、無辜の民を土壇場に送ったのである。

 三鷹事件と福岡事件の再審
 三鷹事件の竹内景助も福岡事件の西武雄も、GHQ(連合国総司令部)による司法への干渉を見た渉外事件の犠牲者に他ならない。GHQは、占領政策の過程で、訴訟事件にも容喙し、強権を発動した。その結果、司法手続の公正さが保証できなかったということである。三鷹事件で、鈴木忠五裁判長は、検察側が主張する共謀共同正犯を「空中楼閣」と断じながら、保身のためにに竹内を無期懲役に余儀なくされたと考えることができないであろうか。無論、三鷹事件は、竹内を含む被告人らの所作ではありえない。下山事件の直後米軍の鉄道部所属秘密工作部隊が三鷹方面に移ったとも報告されており、下山、三鷹事件を含む一連の鉄路上で生じた怪事件は、反共政策の一環として、米軍秘密工作隊により作出された謀略であることは、歴史が証明していると、筆者は確信する(参照、矢田喜美雄『謀殺・下山事件』(講談社、1973))。
 古本屋で購入した『謀殺・下山事件』の書のなかに、下山事件が発生して1年9ヶ月後1951年、当時の吉田茂首相が米国の高官との会談で、下山事件の「犯人が一朝鮮人だった」と発言していたことが公文書で明らかとなったとの新聞記事の切り抜きが入っていた(読売新聞1978.4.30)ので、その一節を紹介する。
 ”Mr.Yoshida said that the Government had determined that the assassination of the President of the National Railways in the summer of 1949 had been by a Korea but that it had been unable to catch the guilty party, who was believed to have fled to Korea.”

 再審臨時特例法案 GHQの干渉の下でなされた裁判の不当性を糺すための画期的な法案が上程されたことがある。再審臨時特例法案がこれである。既に検討したとおり、GHQ統治下でなされた日本の裁判には、GHQの政治的強権により、手続の公正が保障されていたとは限らないこと、1949年の新刑事訴訟法施行前後で捜査当局による拷問などを用いた自白偏重の弊害が抜けきらず、人権擁護の手続に問題が残っていたこと、そして、物的証拠を欠く疑わしい事件があり、未執行死刑囚の多くが無実を主張していることがその理由であった。
 1968年4月の第58回国会において上程された、「死刑の確定判決を受けた者に対する再審の臨時特例に関する法律案」の全13条からなる内容は、
 第1条(趣旨) この法律は、昭和20年9月2日から昭和27年4月28日までに公訴を提起された者でこの法律の施行前に死刑の判決が確定し、この法律の施行の際その刑を執行されていないものに係る再審請求について特例を定めるものとする。
 第2条(再審事由の特例) 前条に規定する者に係る再審の請求については、刑事訴訟法(昭和23年法律第131号)第435条第6号中「明らかな証拠」とあるのは「相当な証拠」と、従前の刑事訴訟法(大正11年法律第75号、以下「旧法」という。)第485条第6号中「明確ナル証拠」とあるのは「相当ノ証拠」とそれぞれ読み替えて、これらの規定を適用する。
 第3条(再度の再審請求の特例) 第1条に規定する者は、この法律の施行前に刑事訴訟法第435条第6号又は旧法第485条第6号に規定する事由によって再審の請求をした揚合においても、同一の理由によって、更に再審の請求をすることができる。(以下省略)
というものであった。
 しかし、本法案は廃案となり、神近市子らによる努力も挫折に終わった。こうして、GHQの干渉による司法判断の再評価、その犠牲者達の救済はなされずじまいであった。三鷹事件の竹内景助は獄死したのではあるが、再審請求者がこの法律の利益を享受できたといえる。また、福岡事件の西武雄は生存していたのであり、それを可能にする再審法案の廃案によりその道を閉ざされたのである。わが国の当時の国会も、この程度であったということになろう。
 筆者は、この度なされた三鷹事件の竹内景助の再審請求により、三鷹事件の事実関係の問題点にとどまらず、竹内有罪が自白を唯一の根拠としているなどの法律問題に加えて、さらに、事件に共通する根本問題、米軍の主として日系二世からなるCIC(対敵諜報部隊)からの情報に基づく多数の謀略と渉外事件に対する干渉を解明することを期待したい。


沖縄と普天間米軍基地のこれから
 第7回9条フェスタの開催
 2011年11月5日、お茶の水総評会館で開催された「だから輝け9条! 世界へ未来へフェステバル2011」に参加した。会場は、昨年に比べると狭すぎる会館であったが、筆者は、14:00から行われた「いま憲法の視点を!〜脱基地・脱原発社会に向けて」(樋口陽一、石井下平、伊藤成彦(コーディネータ−))に出席した。80人ほど収容の会場は開会前から満席であり、まさしく立錐の余地がないほどであった。筆者は、憲法21条国賠訴訟の団長を務めていることから、東北大学の大学院時代に教授していただいた樋口先生の基地問題に対する憲法論を是非お聞きしたかったからである。
 沖縄は、攻撃の要
 太平洋戦争末期、沖縄は3か月に及ぶ激しい地上戦の後、米軍に占領された。太平洋戦争によるわが国の敗戦による沖縄占領は、日本本土とは異なり、連合国最高司令官の任務分担ではなく、極東軍の担当として、一応機能上区分されていた。本稿の冒頭に記したように、「沖縄はアメリカの戦略の要(かなめ)であり、アメリカ以外の連合国に口出しさせないために単独占領を意図したものであった」。かくして、沖縄の占領から生ずる問題に対処するために、1948年7月、極東総司令部内に琉球軍事政局が設置された。戦後、旧日本軍の基地は米軍に接収され、新たな基地も続々と建設された。その後、対日講和条約(1951)によって、沖縄はアメリカの施政権下に入り、米軍基地は拡大して行く。昭和35年(1960年)に改正された「日米安全保障条約」は、1951年のサンフランシスコ平和条約と同時に日米間で締結された体裁をとっているが、敗戦国・日本には、強要された「旧・安全保障条約」を、事実上そのまま引きずっているに過ぎない。
 アメリカが沖縄に多数の基地を建設し、維持することに固執してきたかの理由は簡単である。アメリカ政府の公開資料をみても明らかであるように、アメリカの防衛(むろん、日本の防衛など論外)ではなく、攻撃の拠点なのである。その事実を雄弁に示しているのが、海外遠征を主目的とするが、沖縄に駐留している17,000人の海兵隊の駐留である。西太平洋全域からインド洋、アフリカ東海岸までの広大な地域がこの部隊の守備範囲であり、アフガンやイラクがその攻撃目的であったことも証明された。
 1972年の沖縄の施政権返還まで、沖縄はアジア最大の核基地でもあった。国民をだまし続けノーベル賞財団まで欺罔した当時の佐藤首相の日本と米国両国政府は、有事の核持ち込みを密約を締結してベトナム戦争をはじめアメリカ軍の自由出撃ができるようにした。施政権返還にあたって、沖縄は、米軍が海外に出撃するための戦略拠点、要だという性格を占領直後から一貫して保持しつづけているのである。
 沖縄の悲劇は終わらない
 1995年(平成7)9月の米海兵隊員による少女強姦(ごうかん)事件は沖縄の人々を激高させた。米軍基地撤廃を求める沖縄の人々の声は怒濤となった。しかし、相変わらず、米軍の軍用地使用は、日米地位協定による特別措置法により土地収用委員会の採決によって実施されてきた。沖縄県知事大田昌秀(当時)は、米軍基地反対の声が高まるなかで、米軍用地地主の立会署名代行を拒否したが、内閣総理大臣による訴訟が起こされ、1996年8月28日の最高裁判決で沖縄県知事の敗訴が確定した。筆者は、ここに、渉外事件に見ることができたと同質のわが国政府と最高裁判所GHQ(=USA)の干渉、すなわち、国家に対する主権侵害、司法権への干渉・否定、国民の個人の尊厳、基本的人権の侵害を見るのである。
 普天間基地問題
 宜野湾市のある普天間米軍基地の地図で確認できることは、この飛行場の周辺に数多くの幼稚園、小学校、中学校、高校、そして米軍ヘリが墜落した沖縄国際大学、更に病院が取り巻くようにして偏在していることである。
 基地の騒音はどのようであるのだろうか。沖縄県本部/宜野湾市職員労働組合の作成したページを見ると、次のような投稿がある。
 22:15 市内在住(女性):10分前くらいにものすごい金属音で1機着陸したようです。基地内からは、エンジン調整音なのか甲高い音が聞こえます。体調が悪いのですが、何とかこの騒音をなくしてもらいたいです。
 14:05 男性:昨年のヘリ事故以降、住宅地上空の飛行が激しくなっている。早朝から夜間、土・日曜日も関係なく、電話も聞こえない。市民を馬鹿にしている。
 21:52 市内在住(女性):夜の10時前だが、聞いたことのないエンジン音が聞こえた。ものすごく気持ち悪い音で、子供達も耳をふさぐくらいのとても大きな音だった。調べてみて下さい。
 20:52 市内在住(女性):ヘリが墜落した現場から3分程の場所に住んでいる。20分前からヘリが自宅上空を飛んでいる。墜落事故以前の状況よりうるさい。また墜落するのではないか、夜間に墜落したらどうなるのかと、不安でなりません。
 横田や厚木の米軍基地に隣接するどこの住民も訴える内容よりも酷い状況が訴えられており、深刻さが伝わってくる。福岡高裁判決は、普天間が「世界一危険な飛行場」であると認め、騒音を理由とする損害賠償を認めたとしても、さらに、事態の悪化が予想されている。2012年危険極まりない欠陥機オスプレイの配備計画が持ち上がっているというのである。
 私は、率直に言いたい。米国では、このような学校施設の近くには基地など設置するできるはずもないし、するはずもなかろう。そもそも、それらの近くに高圧電線を架設することすら禁止されているはずである。自国ではできないことを沖縄ではする。ここには、米国が、わが国を占領国の延長に位置づけ、また、沖縄に施政権に有していた時代からもってきた傲りがみられる。米軍には、今も沖縄も日本も米国の占領下にあるとの支配・精神構造が見て取れる。OKINAWA BASE CAMP IN OCCUPIED JAPANなのだ。
 今、普天間米軍基地から爆音をなくす訴訟団が結成され、普天間飛行場の飛行差し止めと閉鎖に向けての訴訟原告団が形成されはじめている。そのパンフには、「子供たちの未来が爆音やフェンスで阻まれることがないように 私たちは声を上げる 安心して学べる学校を 静かに眠れる夜を私たちの手で取り戻そう」とある。
 
 樋口講話と憲法11条
 樋口先生の講話は、現在93歳のステファン・エセル(Stéphane Frédéric Hessel)の著した32頁のパンフ、『憤慨せよ』(“Indignez-Vous“)からのお話であった。エセルは、ドイツに生まれたが、レジスタンスとしてナチと戦い、フランスに帰化後、外交官、大使また作家となり、1948年の世界人権宣言の起草に参加した。講話の後半は、この人権宣言と日本国憲法の骨子についての説明であった。
 紙幅の関係で多くを語れない。しかし、公安警察による集会の開催と参加の妨害を理由に憲法21条国賠集団訴訟を闘っている我々弁護団にとって、看過してはならない肝要な支柱を示唆していただいた。ややもする、その法的根拠として、集会・結社・表現の自由を謳う憲法21条にとびつき立論することになりかねない。そうではなく、憲法11条「基本的人権の享有」と憲法13条「個人の尊重」から演繹すべきであるということである。明日(11月14日)、国賠集団訴訟の当事者尋問が始まり、元明治学院大学森井真学長が証人台に立つ。沖縄では、基地反対などの平和運動をする人々を真正面から公安警察がビデオカメラに収めて平然としているという。このような違法なことが許されるべきではない。
 力ずくで何でもできるという発想は、GHQ、USA、公安=特高でその本質は何も変わらない。筆者も支援しているJR総連の冤罪浦和電車区事件もまさにその典型である。平和を愛し、人権を擁護し、民主主義の確立に向けて団結を固くすればするほど弾圧の標的となり、抵抗とヒューマニズムに溢れた「鬼」松崎明も同様であった。爆弾を投げ込まなくとも、警官が、止めろといって電柱に飛びつく狂言、刑事自らが被害届を書いて犯罪があったかのように立ち振る舞う。これが、わが国の公安の姿だ。そして、司法がその後押しをする。
 今一度、日本国憲法、また、世界人権宣言も謳う個人の基本的人権、個人の尊重の原点に立ち返る必要がある。個人の基本的人権の享有、個人の尊重を意を介しないと、力づくの政治や司法が支配することとなる。その結果、忌まわしい三鷹事件の竹内景助の獄死が起きたし、現在における普天間基地の悲劇が起きていると思う。

【追記】 2011.11.13付の朝日新聞「米軍属の犯罪裁かれず」の記事を読み、GHQ、米軍の渉外事案の反面を見ることになった。権力を傘に着て謀略事件を引き起こし、渉外事件では裁判官に指示や指令を出し、司法に干渉したことは、本文で述べたことである。しかし、GHQ、米軍に所属した人々が犯した犯罪の処理については、ゴザ市で起きた強姦事件のような公務外の場合を除いては、ほとんど想像を超える域を出なかった。この新聞記事によれば、2006年からはわが国内に駐留する軍属が公務中に犯罪を犯した場合、日米いずれでも裁判にかけられない事態であるというのだ。何故わが国で発生した犯罪につき、属地原則に基づき、日本の裁判所で審理できないのか、なぜ日本に裁判権がない、ことになるのか。日米地位協定に根本的な問題がある。わが国民の基本的人権司法権を否定するOCCUPIED JAPANは、現在まで続いているのだ。