今村力三郎と大逆事件

 専修大学の今村法律研究室で開催されたシンポジウム
 2010年2月17日(夕刊)の中日新聞東京新聞に掲載された。
 石井敬記者に多謝。
 
 今村弁護士がこのような形で評価されることは、過渡と現在の時代状況の中で、極めて重要なこと。

 シンポに参加できなかった方から、矢澤の報告に関するものがないかとのメールやら電話をいただいたので、報告の原稿(完成版ではない)が、掲載することにした。


 大逆事件今村力三郎
                              2010.2.6
                              弁護士 矢澤磤治
 1 私と冤罪への関心
  ただ今、紹介をいただきました矢澤です。私は、現在、二足の草鞋を履いております。1つは、専修大学の教員です。法学部と大学院、そして、法曹養成のための法科大学院ロースクールの教授で、教えたり、研究したりです。教えている分野は、国際私法と国際民事訴訟法そして環境法です。今日お話しするテーマとは全く関係がありませんが、国際私法とは、国際的な私人の関係から生ずる法律関係、例えば国際的な離婚や商取引をいかなる国の法で解決したらよいかという法分野のことです。国際民事訴訟法とは、国際的な民事紛争が発生した時に、どこの国で訴訟をすることができるかなどを対象とする法分野です。私の二つ目の草鞋は、弁護士業です。早いもので弁護士登録してから、18年目に突入しました。当初は、家事関係と民商事関係の事件だけしかやっておりませんでしたが、10年頃前から刑事事件も取り扱うようになりました。そのきっかけとなったことは、大学院で法曹倫理の授業を担当したことです。学部の同僚としておられた庭山英雄弁護士、小田中聰樹先生に強く感化されたのです。皆様ご存じの方も多いと存じます。そうして、法曹倫理の授業では、大学院生に、警察、検察そして裁判所という膨大かつ強力な国家権力による刑事事件の対応に目を凝らして欲しいと考え、冤罪をテーマとして取り上げました。
 この授業では、多くの人々のお力を借りました。また、とりわけ弁護士の方々にも講師として参加していただきました。ごく一例ですが、その内容を紹介いたします。まず、後藤昌次郎弁護士、皆様も岩波新書『誤った裁判』などを読まれたことがあると思いますが、冤罪全体について話をいただきました。作家の伊佐千尋さんにも「司法改革のまやかし」のテーマで、そして、戦後に、警察によりでっち上げられた菅生事件については、渡辺千古弁護士にお願いしました。この事件は、諫山博の著書『駐在所爆破事件は現職警官だった』により紹介もされました。そして、過日最高裁で再審決定が下された布川事件茨城県利根町の布川で起きた玉村天象さんの強盗殺人事件ですが、柴田五郎弁護士にもお話をいただきました。今年の1月12日には、桜井昌司さんと杯を交わしました。桜井さんは、29年の刑務所生活を感じさせないエネルギーをもたれていたのには、改めて驚かれましたが、29年という期間の穴埋めはどうなるのでしょうか。いずれにいたしましても、大学院の特別授業で冤罪をテーマに据えたことで、日本の司法の在り方を根本的に検討してみる確かなきっかけができました。
 私は、今から5年前に、本日のシンポジウムを主催している今村法律研究室の室長となりました。ここでも、毎年1回冤罪をテーマとして、再審の開始を求めるためのシンポジウムを開催いたしました。袴田事件名張ブドウ酒事件、狭山事件、そして布川事件などであります。幸いにも、昨年の10月、これらのシンポジウムの結果をまとめた書物『冤罪はいつまで続くのか』を花伝社から出版することができましたので、是非お読みいただきたいと想います。

 2 捏罪:大逆事件
 漢字の成り立ちを説明してくれる『説文解字』『説文解字注』によれば、「屈也从兎从口兎在る冂下不得走益屈折也」とあり、冤罪の漢字で、「冤」は、「兎が冖(おおい、囲い)の下にありて、走ることできず、屈折することなり」という会意文字であり、市民が身に覚えのない罪について犯人とされ、刑に服することを強いられるというものです。
 過日、再審が決定した布川事件では、櫻井さんと杉山さんが29年間獄中に閉じこめられました。むろん、無罪判決が下されると信じております。帝銀事件では、平沢貞通が逮捕後39年後に獄死します。ある日突然、無辜の民が犯人とされる。17年半ぶりに生還した、足利事件菅家利和さんも冤罪の犠牲者です(菅家利和『冤罪』(朝日新聞社,2009))。そして西には飯塚事件があり、DNA鑑定に疑問がある久間三千年(くま みちとし)さんは、既に、元森法相の下で処刑されているのです(http://gonta13.at.infoseek.co.jp/newpage448.htm)。
 先程紹介した後藤弁護士は、冤罪は国家によってつくられる、と云いましたし、布川事件で尽力された、かって東京都立大学の法学部長を務められた清水誠先生は、冤罪ではなく、捏造の捏と罪を組み合わせて「捏罪」という風に表現されております(『時代に挑む法律学』(日本評論社,1992)436頁以下)。そして、本日のシンポの対象とされた事件、大逆事件は、わが国の刑事事件では最大の冤罪事件です。 
 後から紹介いたしますが、今村法律研究室の今村とは、弁護士今村力三郎のことです。専修大学出身の最大に誇れることができる人であると信じます。時間の関係で、少しだけ紹介するにとどめます。長野県飯田の生まれ。専修大学の夜学生して苦学して励み、代言人(弁護士)の試験に合格。首席で卒業。数多くの事件を担当しますが、これについては後ほどお話します。第二次大戦後、専修大学新制大学に移行後苦難、とりわけ財政難の時代に突入しました。受験者と学生の激減があったからです。今村総長は杉並区成田東のすべての自宅の土地、2900坪を寄付しました。今村は、86歳の時から大学の粗末な一室に住み、総長として務め、この部屋で89歳でなくなりました(『専修大学の歴史』(平凡社、2009)243頁)。
 以下では、今村と略称しますが、今村の名を特に後生に残せしめた事件は、今村が官選弁護人、現在の国選弁護人を務めた二つの大逆事件、すなわち幸徳秋水大逆事件と難波大助の虎ノ門事件と呼ばれる大逆事件といっても過言でないと想われます。無論、今村は、他の多くの著名な事件も担当しました。田中正造とともに闘った足尾銅山鉱毒事件、日露講話反対騒擾事件(日比谷事件)、血盟団事件帝人事件などなどです。ちなみに、今村の担当した事件の記録は、後に専修大学の学長となり、先程、伊藤さんがテーマとしてお話になりました坂本清馬ら4名の再審の弁護団長を務められた鈴木義男により蒐集保存され、大学の図書館に収納されているだけでなく、これらの今村の訴訟記録は、今村法律研究室から毎年一冊ずつ刊行され、現在まで37巻に及んでおります。無論、大逆事件も平成13年から3巻刊行されております。
 さて、幸徳秋水大逆事件に戻ることにします。旧刑法第116条「天皇三后皇太子ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス」、1947年改正前の刑法第73条「天皇太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又ハ皇太孫ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス」。 大逆罪とは、「天皇太皇太后、皇太后、皇后、及び皇太子、皇太孫、そうゆう人達に危害を加えたもの、」あるいは、加えようとしたものは死刑に処するという内容です。大逆罪は、死刑・極刑をもって臨むだけでなく、大審院(現在の最高裁判所)が「第一審ニシテ終審」であり、裁判は非公開で行われるのである。
 この事件は、1910(明治43)年、幸徳秋水を首謀者とする多数の社会主義者無政府主義者明治天皇の暗殺計画を立てたという被疑事件です。起訴された者は、幸徳秋水を初めとする26人、秋水が獄中から今村等の弁護人に宛てた陳述書で述べたように、「検事の聴取書なるものは、殆ど検事の曲筆舞文、牽強附会で出来上がってゐる」ものであり、10月1日に作成された予審意見書も、菅野スガが「死出の道草」で書いたように、「譬へば軽焼煎餅か三文文士の小説のようなもの」であったと表現しております。しかし、12月10日から公判というなの秘密裁判が始まり、12月24日には被告人の訊問が終わり、25日平沼騏一郎主任検事による論告、松室致検事総長による全員死刑の求刑がある。それから27日から3日間の弁護人による弁論後、翌年明治44年1月18日鶴丈一郎裁判長による「鶴の一声」により24名の死刑判決が下され、12名には無期懲役への減刑がなされたが、秋水ら12名は、判決の1週間後に1月24日と翌日に死刑が執行されたのであす(渡辺順三編、江口渙解説『大逆事件の人々』(新興出版社,1964)。
 今村が、二つの大逆事件として、両事件は原因・動機において密接な関係あるとして大逆事件裁判に批判的な所感を率直に披瀝した書である『芻言』の「自序」で述べるように、「幸徳事件にありては、幸徳伝次郎、菅野スガ、宮下太吉、新村忠雄の四名は事実上に争いなきもその他の二十名に至りては果たし大逆罪の犯意ありしや否やは大なる疑問にして、大多数の被告は不敬罪に過ぎざるものと認むるを当たりとせん。予は今日に至るも、その判決に心服するものに非ず」という言明には理がある(森下澄男「今村力三郎」、潮見俊隆編著『日本の弁護士』(日本評論社、1972年))。さらに、秋水は、首謀者でもなければ、計画に加担したともいえないのである。秋水が無政府主義者であるから暗殺主義者(テロリスト)であるとの前提で、多数の被告が大逆罪に断ぜざられんことを慮り、秋水は、「死を期して法廷に立ち、自らのための弁疏の辞を加へざりしため、直接彼より何も聞くことを得なかったとはいえ、衷心大に諒ととすべきものである」(平出修「意見書」)。
 原稿を準備しているときに、管野スガが秋水の無罪を嘆願する書簡が我孫子市で100年ぶりに発見されたの報道があったことを聞くに及び驚きました。毎日新聞には元明治大学副学長の山泉さんがコメントされておられました。http://mainichi.jp/select/wadai/news/20100129k0000e040085000c.html

 3 大逆事件における今村の弁護活動
 大逆事件において、今村は、どのような弁護活動をしたのでありましょうか。結果は、衷心忸怩たるもの、何もできなかったということであります。まず、今村は、司法省側から事件が事件であり、国の内外の目が注がれ、後生に残る裁判だから、弁護も当代一流の弁護士に担当して欲しいとの意向が示され、花井卓蔵と今村に白羽の矢が当たったという次第です。当時、今村は44歳でした(平出修研究会編『平出修とその時代』(教育出版センター、1985)174頁))。今村と花井は、秋水、菅野スガ、新村忠雄、宮下太吉の弁護を引き受けました。結果は、これらの被告人が4名とも死刑でした。今村の弁護人としての評定には「特色ナシ」との酷評もあるのですが、今村は、弁論を尽くしたかったにもかかわらず、それが叶わなかったというのが本当のところではあるまいかと私は判断しております。
 今村は、自ら『芻言』で、大逆事件の審理について、このように言い放ちます。「ことに、裁判所が審理を急ぐこと、奔馬のごとく一の証人すらこれを許さざりしは、予の最も遺憾とした所なり、当時予は弁論を結ぶにかくのごとき事件にありては、裁判所は宜しく普く被告に利益なる事実と証拠とを調査し、苟も疑いある者には無罪の判決をなし、その上にもまだ無罪の人がいないかと一人にても多くの無罪の人を出すことに努力すべきである。かくすることが国史の汚点を薄くする所以であるとの言を以てせし事を記憶せり。」(今村力三郎「芻言」『法廷五十年』(専修大学出版局、1988)。漢文混じりで、今時の人達には、少し理解しがたいところもあろうかと想いますが、要するに、一人の証人の採用も認めず、十分な弁護活動をさせずに、時の権力者が予断と偏見を持って、被告人を有罪に導いたことに対して、今村は怒り心頭に発すというところでしょうか。
 大逆事件の弁護人たちは裁判構成の必要上、法廷に並んだだけでで、一人の証人さ許されず、公開が禁止され、裁判所は事前に余談を抱いて形式的な審理をしたにとどまり、26名の被告に死刑を宣告したのである。要するに、今村らの弁護人は、その能力を如何なく発揮するどころか、その任務を果たすことができなかったのである。今村は、端的に述べます。「弁護人としての任務を尽くし得なかったことは、いまなお自ら顧みて衷心忸怩たるを覚えるのである」。 

 4 今村弁護士の懲戒請求事件
 今村の記した『芻言』は、朝野の少数の有識者に配布されたガリ版刷りの意見書です。ある書店からガリ版刷りのものを購入しました。これです。しかし、手に取ってみると贋物のようです。それはともかくとして、『芻言』の内容は、二つの大逆事件の相関関係を指摘しながら、大逆事件への批判的所感を述べて、為政者の反省を促そうとしたのです。そして、このような不合理な裁判制度にて抵抗できるものとは、エリートではなく人民大衆であり、人民のための真実公正な裁判を求める世論の組織と裁判の監視であるといいます。
 このように為政者を諫めた今村に対しては、権力者が弁護士としての資格を奪いとろうとする事件がでっち上げられます。これが今村個人に対する冤罪事件、『今村懲戒事件』です。詳しくは、今村法律研究室から出版されたに訴訟記録によらざるを得ませんが、事件のあらましは、次のとおりです。今村らは、貴族院議員藤田謙一に対する業務上横領事件、合同毛織事件の弁護人を務めておりました。ところが相被告人の一人が病気となり、分離して審理されることになりました。とすれば、藤田被告人も分離して審理がなされるはずであり、裁判所との間で合意も存在していたのです。ところが、裁判長の垂水克己は、併合罪を併合しないで別々に裁判するという暴挙に出ました。そこで、今村らの弁護人らは垂水裁判長の忌避の申立をしたのです。この垂水克己裁判長は、戦後、最高裁入りを果たし、あの松川事件では、田中耕太郎長官とともに少数意見に組みしたことで知られる裁判官です。今村の懲戒事件もあの松川事件も権力者によりでっち上げられた冤罪事件に他なりません。さて、垂水裁判長はこの申立を即日却下しました。今村らは抗告をして、抗告に対する裁判がなされるまでは退廷すると述べたところ、垂水裁判長は、「宜しうございます」ということで、今村らは退廷しました。これが、事件の引き金となりました。後日、今村らが忌避を申し立て退廷したことが、訴訟手続きを中止して訴訟を遅滞させることが唯一の目的であるとの理由で、懲戒請求請求されたのです。起訴されて東京控訴院で有罪、大審院でようやく不処罰の判決が得られたのです。

 5 今村の国家権力の思想問題に対する所見
 専修大学の法学部の元教授でありました栄澤幸二さんは、「大逆事件の歴史的背景と今村力三郎の思想的特徴」という興味深い御論文を訴訟記録の『大逆事件(三)』で書かれております。今村は、社会主義者無政府主義者のみならず自分に対しても、権力者が非常の圧政をなし、言論集会出版の権利自由を奪い、甚だしきは生活の方法も奪っていることを断罪します。「今村力三郎は、言論・思想・表現の自由という、立憲政治にとって、必要不可欠な前提条件である市民的自由を制限・抑圧しようとする司法当局や、原敬内閣の許し難い「謬見」が、「壓制」と「迫害」ならびに下からの「反抗」や「暴力」を惹起する根因である。その結果は、「反動と失敗」に終わるだけだ、と断言していたのです。しかも、今村が権力の憂慮すべき動向として、こう述べていた事実を、重ねて強調しておきたい。」と(栄沢幸二『大逆事件(三)』(専修大学今村法律研究室編、283頁以下)。
 話は、少し変わりますが、私たちは、現在、東京地裁で「憲法21条集団訴訟」を闘っております。この訴訟は、今は亡き日弁連会長の土屋公献弁護士らが呼びかけ人となり、平和と反戦を求めて集会を開催したところ、70名にのぼる公安警察が、会場の入口に蝟集し、さらに、近くのカフェからビデオカメラで参加者を盗撮したことに対する、国賠訴訟です。弁護団も200名を超えております。私も団長を力めておりまして、この訴訟により、民主主義国家の根幹をなす基本的人権である集会の開催と参加の自由を憲法論として確立したいと決意を新たにしております。私がこのように対応できる精神的支柱は、今村弁護士の「反骨」や土屋公献弁護士の「弁護士魂」が根付いていると云っていかも過誤ではありません。
 しかし、今時の裁判官は、言論や表現の自由の擁護の最後の砦になっているでしょうか。日の丸掲揚、君が代斉唱の強制、それに異を唱える教諭の処分、官舎の郵便受けに政治ビラの投入を有罪とするなど、むしろ、裁判官は、民衆の表現の自由、集会の自由等に対する公権力からの侵害や弾圧と抑圧を背後で支えているかのようなてたらくです。
 今村は、第二次大戦後に民主主義憲法が制定されても、これを「強く正しく尊守し、発展して」いくことができるかと問題提起し、「これを守る日本人が呉下の旧阿蒙(昔のままで進歩のない人)であっては憲法憲法たる真価を発揮する事ができないと言い切ります。さらに、今村は、明治、大正、昭和の3時代を通じて、わが国の司法権は人権擁護の任務を尽くしてきたと言えるかと問い、「憲法が改まり、軍国主義の旧套を脱ぎ去り、民主主義の新衣を飾る日本国民も、最後の城壁たる裁判が、時勢や権力に阿附追随する醜態依然たるものであっては、民主主義の達成も甚だ心許ないものである」といいました。特に、裁判官に対する批判は、傾聴に値すると思います。
 私は不幸な事であると思いますが、裁判官は戦争責任を問われる事がありませんでした。ですから、先程触れた垂水克己裁判官も生きながらえて、最高裁入りを果たしました。しかし、裁判官は良心に従いその職務を行うことができると身分保障されています(憲76)。しかし、どうでしょうか皆さん。今時の裁判官は、俗にいわれるヒラメの裁判官、つまり最高裁判所事務局の評価だけに気を遣う裁判官が多くいる、い過ぎると感じませんか。今村は、裁判官の独立は裁判を神聖ならしめんとする精神的立法であって、決して、老巧若巧の保護や誤判の無責任を保障したものではないと断じました。わが国で発生してきた数多くの冤罪事件でも、裁判官も検察官も誰一人責任をとろうともしませんね。その例外は袴田事件の熊本典通さん位でしょうか。足利事件の森川検事も酷いですね。菅家さんに謝罪するごころか、組織防衛をして居直っておりました。さらに酷いことは、わが国では、このような冤罪事件の被害者に対しても国家賠償が認められない事が多いのです。青森で起きた弘前事件の那須さん、彼にも国賠は認められませんでした。今村の心配していたことが、まさしく、現実、そして日常的となっております(森下「今村力三郎」前掲書132頁以下)。

 5 ヒュマニストである秋水
 1)死刑廃止論
 さて、幸徳秋水は、大逆事件の首謀者として絞首刑に処せられ、40数年の生涯の幕を綴じることになるのですが、この事件は、政府の陰謀的創作(「冤罪」)であったことが、後に総理大臣となる平沼騏一郎自らにより既に認められているところであります。今村が秋水の私選弁護人を務め、彼の無罪を確信し弁論してきたことは、『芻言』で知りうることであります。しかるに、大逆事件の被告人達は、暴力革命や明治天皇の殺害の共同謀議など全くしていないにもかかわらず、世間では「畏るべき事件」として、闇に葬り去られてきたのであります。むしろ、私は、幸徳秋水が権力を否定し、戦争に反対することに徹底したヒューマニストであったと確信していてきました。明治35年3月24日付けの「死刑廃止」の社会時評は、まさしくその確信を裏付けるものです。そして、この時評は、現在でも死刑廃止論の核心を穿つ内容を備えております。
 死刑廃止論の一部を紹介する。
 「西人曰く、人の生命は地球よりも重しと,夫れ世に地球よりも重きの生命を絶たしむるに相當する程の犯罪ある乎、縦令如此きの犯罪ありとするも、誰か能く之を判別することを得る乎、神ならずして誰が能く人の生命を絶つべしと宣告しうるの資格を有する乎。・・・吾人は實に絶対の悪人なる者を想像すること能わず、而して實に之あることを信ずる能わず縦令之有りとするも、而も人は決して之を判別し得可からずして、而して其生命を絶つの権利ある可らざる也、況や其宣告の錯誤に出るを発見するも、一たび刑を行うや遂に回復の途なきや、況や道徳の標準や程度や、常に其の世代に随ってことなるをや、豈其死に當するの永遠に通じて動かす可らざるの犯罪なるものあらんや。而して、死刑は永遠に地球よりも重きの生命を断送する 也。」(幸徳秋水『評論と随想』(自由評論社、1949)) 。秋水は、死刑廃止を唱えました。そして、冤罪により取り返しのつかない生命の権力の剥奪の不合理性も指摘したのです。死刑の求刑。悲しいことに、秋水は冤罪で死刑宣告され、わずか1週間後に処刑されたのです。
 1950年にティモシー・エバァンス事件で、自分の妻と子供を殺したとして死刑を宣告され、そして処刑されたティモシー・エバァンス。実は、目撃証人をした隣の男が真犯人であった。わが国でも、かろうじて死刑台から還った人もいる。免田、財田川、松山、島田事件の元死刑確定囚である。しかし、足利事件と並んで焦眉の的となっている飯塚事件久間三千年さんは、既に処刑されているのである。わが国でも、冤罪で死刑に処せられるというおぞましい国家犯罪が存続し続けているのである。
 2)非戦論
 幸徳秋水が時の権力者から抹殺すべき目標とされたことは、今日のシンポジウムのテーマに深く関わることであると思います。秋水の死刑廃止論の根底にあるのは、秋水が、1904年の平民新聞に投稿した内容からも知ることができます。「真理の為めに、正義の為めに、天下万生の利福の為めに、戦争防止を絶叫すべきの時は来れり。夫れ人類博愛の道を尽さしめんが為めに、人種の区別、政体の異動を問わず、世界を挙げて軍備を撤去し、戦争を禁絶するの急要」である」と訴えました。近代日本の国家権力は、被抑圧諸階層としての民衆、その利害を代弁する政治権力の下からの反権威的、反権力的、反体制的な運動と対決し、これらを根絶することに力めました。直接的な行動にとどまらず、「厭世思想」や社会主義などを危険思想と考え、「流毒を未然に防ぐ」ためのあらゆる予防措置が講じられたという次第です。与謝野晶子が籌三郎(ちゅうざぶろう)が出征し、「死んで行くさだめを持った弟に対する嘆き」を「君死にたまうことなかれ」と読んだ(中村文雄『君死たまうこと勿れ」(和泉選書、1,994)101頁以下)。秋水も、同様に、平民新聞の「兵士を送る」という時事評論で徴兵され日露戦争に出征する兵士を自動機械として、「英霊なる人生を強いる」ことに真っ向から批判していたのです。
 さらに、秋水は、日韓併合についても論じております。今年は、日韓併合100年です。啄木風に表現すれば、時代閉塞状況とは、併合という名目で日本帝国を作り出すために口実に過ぎないことを断罪しております。このような秋水の断罪が正しかったことは、歴史的にすでに証明済みです。しかし、秋水は、時の権力者により、この非戦論を含めた博愛精神の持ち主が目の仇とされ、死刑台に送られたという次第です。http://www.ne.jp/asahi/anarchy/anarchy/data/koutoku02.html


 吾人は飽くまで戦争を非認す    (1904年 1月)

 凡ての時と所とに於ける凡ての罪悪を集むるとも決して一の野戦に依りて生ずる害悪に過ぐることなし(ヴォルテール)。
 戦争は人間の財産及び身体に関してよりも人間の道徳に関して更に大なる害悪を為す(エラスムス)。
 大砲と火器は残忍にして嫌悪すべき器械なり、予は信ず、是れ悪魔の直接の勧奨に依りて生ずるものなるを(ルーテル)。
 時は来れり、真理の為めに、正義の為めに、天下万生の利福の為めに、戦争防止を絶叫すべきの時は来れり。
 夫れ人類博愛の道を尽さしめんが為めに、人種の区別、政体の異動を問わず、世界を挙げて軍備を撤去し、戦争を禁絶するの急要なるは、平民新聞創刊の日、吾人既に宣言せり、爾後の紙上、未だ特に此一事に向って全力を傾注するの機を得ざりしと雖も、而も各欄、各項、事に接し物に触れて、毎に此旨義を説明論道するに力めたるは、具眼の読者の諒とせらるる所なる可きを信ず。
 而して今や日露両国の事、狡兒事を好みて頻りに人心を煽揚し、豎子計を失して深く危地に陥り、揆離扞格日は一日より甚だしきを致す、市虎三たび出て、不狂人も亦狂人を逐うて走らざることを得ず、勢いの駆る所、横死流血の惨を見る、亦測る可らざらんとす、殆哉岌乎たり、之に加うるに我同胞中或者は戦勝の虚栄を夢想するが為めに、或者は乗じて奇利を博せんが為めに、或者は好戦の慾心を満足せしめんが為めに、焦燥熱狂、出師を呼び、開戦を叫び、宛然悪魔の咆哮に似たり、吾人是に於て吾人同志の責任益々深きを感ず、然り、吾人が大に戦争防止を絶叫すべきの時は来れり。
 吾人は飽くまで戦争を非認す、之を道徳に見て恐る可きの罪悪也、之を政治に見て恐る可きの害毒也、之を経済に見て恐る可きの損失也、社会の正義は之が為めに破壊され、万民の利福は之が為めに蹂躙せらる、吾人は飽くまで戦争を非認し、之が防止を絶叫せざる可からず。
 嗚呼朝野戦争の為めに狂せざるなく、多数国民の眼は之が為めに昧み、多数国民の耳は之が為めに聾するの時、独り戦争防止を絶叫するは、双手江河を支うるよりも難きは、吾人之を知る、而も吾人は真理正義の命ずる所に従って、信ずる所を言わざる可らず、絶叫せざる可らず、即ち今月今日の平民新聞第十号の全紙面を挙げて之に宛つ。
 嗚呼我愛する同胞、今に於て其本に反れ、其狂熱より醒めよ、而して汝が刻々歩々に堕せんとする罪悪、害毒、損失より免がれよ、天の為せる禍いは猶お避く可し、自ら為せる禍いは避く可らず、戦争一度破裂する、其結果の勝と敗とに拘わらず、次で来る者は必ず無限の苦痛と悔恨ならん、真理の為めに、正義の為めに、天下万生の利福の為めに、半夜汝の良心に問え。(平民新聞第十号)

注)兵士を送る(1904年 2月)

 行矣従軍の兵士、吾人今や諸君の行を止むるに由なし。
 諸君今や人を殺さんが為めに行く、否ざれば即ち人に殺されんが為めに行く、吾人は知る、是れ実に諸君の希う所にあらざることを、然れども兵士としての諸君は、単に一個の自動機械也、憐れむ可し、諸君は思想の自由を有せざる也、躰躯の自由を有せざる也、諸君の行くは諸君の罪に非ざる也、英霊なる人生を強て、自動機械と為せる現時の社会制度の罪也、吾人諸君と不幸にして此悪制度の下に生るるを如何せん、行矣、吾人今や諸君の行を止むるに由なし。
 嗚呼従軍の兵士、諸君の田畆は荒れん、諸君の業務は廃せられん、諸君の老親は独り門に倚り、諸君の妻兒は空しく飢に泣く、而して諸君の生還は元より期す可らざる也、而も諸君は行かざる可らず、行矣、行て諸君の職分とする所を尽せ、一個の機械となって動け、然れども露国の兵士も又人の子也、人の夫也、人の父也、諸君の同胞なる人類也、之を思うて慎んで彼等に対して残暴の行あること勿れ。
 嗚呼吾人今や諸君の行を止むるに由なし、吾人の為し得る所は、唯諸君の子孫をして再び此惨事に会する無らしめんが為に、今の悪制度廃止に尽力せんのみ、諸君が朔北の野に奮進するが如く、吾人も亦悪制度廃止の戦場に向って奮進せん、諸君若し死せば、諸君の子孫と共に為さん、諸君生還せば諸君と與に為さん。(平民新聞第十四号)

注)朝鮮併呑論を評す (1904年 7月)

 吾人は近刊の新聞雑誌に於て朝鮮に関する有力なる二論文を見たり、即ち左の如し、
「韓国経営の実行」「韓国経営と実力」(国民新聞社説、七月八日、十二日)
朝鮮民族の運命を観じて日韓合同説を奨説す」(新人第七号社説)

 「国民」の徳富氏が如何に今の政府及び軍人に親しきかを知り、「新人」の海老名氏が如何に今の青年の一部に持て居るかを知る者は、吾人が此二論文を批評するを見て、決して無用の業と為さざるべし。
国民子先づ「韓国経営の実行」に於て曰く
 日露開戦以来既に五個月を経過し、日韓議定書調印後既に四個月を経過す、然りと雖も、此間に於ける韓国経営は・・・実質的に殆ど一の見るべきものあるなく、日韓議定書の精神の如き、未だ一として具体的に実現せられたるものなし。
御料荒蕪地開墾の要求の如き・・・韓廷内には異論沸騰して容易に之を承諾するの気色なし、・・・其理由は必ずしも一ならざるべしと雖も、我国の意志未だ充分に徹底せざることは大なる原因の一ならずんば非ず。
故に今日の急務は、我実力を以て韓廷に莅み、以て我意志を徹底せしめ、簡明直截に我が為さんと欲する所を為し我が行はんと欲する所を行なうに在り。
夫れ韓国に対するの途豈他あらんや、唯韓国が一に我国の保護の下にあることを知らしめ、実力を以て之を指導誘掖し、我に対して被保護者の実を挙げしむるのみ。
 嗚呼「日韓議定書の精神」とは何ぞや、「我国の意志」とは何ぞや、「我実力」とは何ぞや、吾人は未だここに其明答を得ず、然れども国民子は其最後に於て、韓国を「我国の保護の下に」置くべきを言えり、而して国民子更に其「韓国経営と実力」の冒頭に於て曰く、
 吾人は韓国の領土保全の為に両回の戦争に従事したり、而して其一回は今尚戦争中也。 嗚呼「韓国の領土保全」乎、「独立扶植」の警語は何時の間にやら消え失せたるこそ笑止なれ、既に保護国と言うからは独立の二字は余り声高に語り得ざる筈也、清盛の甲は彌々多く法衣の裾より現れたり、而も其「領土保全」を説明するや亦更に甚だしきものあり、曰く、
 吾人は韓人の好意に依頼しは彼国の領土を保全する能わず(評に曰く、措辞巧妙を極む)。
然らば即ち韓国の領土を保全するには唯だ我が実力を以てするあるのみ、実力の二字を今一層手緊しく言えば兵力のみ。
故に吾人は、韓国の要所に兵営を建築し我が軍隊をして、恒久に駐屯・・・せしめんことを望む。
 されど韓国の領土は単に韓人の為のみに保全するにあらず、又我国の為に保全する也、即ち韓人の欲するにせよ、欲せざるにせよ、韓国の領土は是非共他国の侵略より保全せざる可らず。
 故に吾人は韓国経営の第一着手として先づ軍事的経営を勧告す。
 清盛は既に自ら其法衣を脱ぎ棄てたり、実力とは、即ち兵力の事也、領土保全とは明かに領土併呑の事也、此に至っては独立も保護もあったものに非ず、世の義戦を説く者、世の「韓国独立扶植」を説く者、之を読で果して何の感あるか。
 次に吾人をして新人氏に聞かしめよ、新人子は「日清戦争の当時、日本軍が朝鮮独立の為に出征したるを喜び、日本帝国を東奔西馳して愛隣の大義を完うせんことを論じた」る人なり、而して「近頃宇内の大勢と東洋の形勢に深く感激する所あり、韓国民族に一片の忠言を呈」して曰く、
 韓国は大陸に圧せられざれば、大海に制せられて、遂に自主独立の権威を発揚すること能わざりき、其間中立を維持せんとするが如きは有名無実のみ、実なきの名は君子の耻づる所なり。事大主義は外に二帝国を有するときは勢い国家を二分せざるを得ざるなり。
因て今や世界の大勢に鑑み、鄰邦の盛衰を思い民族本来の特質を考え、・・・露に合同するか、日に合同するか、其一を撰ぶに在り。
世に属国ほど憐むべきものはあらざるなり、属国たらんよりは寧ろ滅亡するに若かず、又保護国となるも決して名誉にはあらざるなり、保護国とは体裁好き属国に外ならず。
韓国は日露孰れに合同すべきか・・・韓人の合同すべき民族が日本たることは火を見るよりも明なり。
 嗚呼狼は法衣を着すましたり、保護国は不可也、属国は不可也、而も只「合同」と称すれば甚だ可也、合同乎、合併乎、併呑乎、「実なきの名は君子の耻づる所なり」とせば、吾人は韓人が、無実の合同を為さんより「寧ろ滅亡するに如かず」と言わんことを恐る、此点に於て吾人は寧ろ国民子の露骨を愛す、新人子更に曰く、
 スラブ民族が如何に異民族に悪感を懐き居るかは、彼れがユダヤ民族に対することにて明白なり、・・・韓人が露人と合同せんとするは・・・合同にあらずして併呑なり、韓人は到底使役せらるるのみ。
 吾人の見る所を以てすれば、日本民族が如何に異民族に悪感を懐き居るかは、彼れが謂ゆる新平民に対することにても明白也、日本人が如何に韓人を軽蔑し虐待せるかは、心ある者の常に憤慨せる所に非ずや、韓人が日本人と合同せんとする事あらば、そは合同に非ずして併呑也、韓人は到底使役せられんのみ、新人子最後に曰く、
 日本民族より見れば、韓民族と合同することは或いは其光栄とする所にあらざるべし、故に日本人の未だ発せざるに先ち、東洋平和の大義に基き此合同を日本人に迫らば日本人も之を辞するの言葉なからん。
 嗚呼何ぞ其言の幽婉なるや、吾人は新人子を以て直ちに法衣を着たる狼なりと為す者に非ず、然れども此時此文を以て国民子の言に比すれば、吾人は実に此感なきを得ざる也。
 見よ、領土保全と称するも、合同と称するも、其結果は只ヨリ大なる日本帝国を作るに過ぎざることを、又見よ、今の合同を説く者も、領土保全を説く者も、同じく曾て韓国の独立扶植を説きたる者なることを、然らば則ち将来の事亦知るべきに非ずや、要は只其時の都合次第に在り。
 斯くて吾人は此の有力なる二論文が、或は騙し、百方苦心、韓国滅亡の為に働きつつあるを見たり、而して吾人は又日本の浮浪の輩が斯の如き論議を背後に負いて、或は長森案を韓廷に提出し、或は塩専売権、或は煙草専売権、或は仁川埋立工事、或は水田買収計画等に奔走し居るを見たり、日本が文明の為に戦いて東洋諸国を指導すと謂うものの其の公明正大なること一に何ぞ此に至るや。(平民新聞第三十六号)
 
 6 今村力三郎という人物
 今村により、戦後執筆された『芻言後記』には、司法権のあり方について十四yなことが書かれているので紹介いたします。今村は、戦後民主主義憲法が制定されても、「強く正しく尊守し、発展して行く殊ができるか」について問い、「これを守る日本人が依然として呉下の旧阿蒙であっては憲法憲法たる真価を発揮することが出来ないと」思うというのです。そして、さらに、「言論自由最後の城壁は、国家の司法権に依て擁護せられるのであるが、明治・大正・昭和の三時代を通じて、我司法権は果たして人権擁護の任務を果たしたでしょうか」。「憲法は改まり、軍国主義の旧套を脱ぎ去り、民主主義の新衣を飾る日本国民も、最後の城壁たる裁判が、時勢や権力に阿附追随する醜態依然たるものであっては、民主主義の達成もはなはだ心許ないものがある」。殊に、「裁判官を終身官とし独立官としたのは、裁判を神聖ならしめんとする精神的立法であって、老𣏓弱𣏓の保護や誤判の無責任を保障したものではない」とした(森下、前掲論文132ー133頁)。

 7 終わりに
 時間が参りましたので、私のお話を終えることにいたしますが、大逆事件は、世界各国でも知られ、轟々たる批判を受けた冤罪事件です。私たちは、皆様方とともに、この事件を今一度再検証て、我が国の民主主義の礎をたる、言論、思想、表現そして集会の自由を確立、維持するために邁進いたしたく思います。