大逆事件の訴訟記録と今村力三郎の懲戒事件

    
   今村力三郎懲戒事件
              専修大学・今村法律研究室長                    おおとり総合法律事務所
              弁護士 矢澤磤治(やざわ しょうじ)

 今村懲戒事件にかかる、被告人今村力三郎の第四回尋問調書を紹介する。この調書には、弁護士今村力三郎が訴訟事件に対応する弁護士としての姿勢に根本的な変容があったこと、また、自らの懲戒事件につき、公判速記と調書の内容に齟齬があること、藤田謙一の供述が虚偽であることが述べられている。
 今村力三郎に対する懲戒事件については、昭和七年二月二九日東京控訴院における懲戒裁判所の受命判事齋藤喜一、裁判所書記官田豊治立会の下で、第四回目の尋問が行われた(以下では、カナ交じり文を多少書き換えた。強調も、矢澤)。

 問 最終の供述として陳述する事項はないか。
 答 六月二十九日の公判調書に記載されている退廷の問答に関する却下について、前回の取調べの際には、公判速記に基づき記憶を喚起して供述をしましたが、その後公判調書の写しを入手しましたので、それに基づきますと公判調書の方が簡易にすぎていますので、その誤りがある点を指摘し、申し上げます。
 その公判調書の記載に拠りますと、鵜澤聡明の陳述は聞き取る事ができないと記載し、今村力三郎の陳述に対して、裁判長は、「ああ、そうですか。ご随意に。」と告げたが、その直後、「弁護人の退廷に同意しません。」と宣言したかのように記載しているけれども、速記には、明白に、裁判長は鵜澤弁護士に対しては、「それは、ご随意です。」と答え、今村弁護士に対しては、「宜しうございます。」と答え、今村弁護士が「お許しあれば、退廷いたします。」と陳述した後、前言を取り消したものであります。
 公判の速記は、一部裁判所に提出して調書の作成の参考になったものと思われますが、以上のように、公判調書と公判速記が相違いたしますのは、弁護人の不退廷が懲戒問題となった後に裁判長の退廷問題の点を曖昧にしようとして、作成されたものと思われまして、自分は甚だしく遺憾に思います。
 懲戒裁判所では、被告の平素の行状を参酌されることがあるのでありますから、一言自分のことにつきまして申し上げておきたいと思います。
 私は、懲戒裁判所へ対して故意に偽りを(原文は、「欺リヲ」)申したことはありません。弁護士として事件に対する自分の考えは、四〇歳前後頃までは、弁護士は、戦って勝つは良いように考えておりましたが、その後この考えは間違っていた事に気付きまして、前に戦って勝つという考えが勝つべきものに勝ち負けるべきものには負けるのが正しいとのだという考えに変化してきました。
 したがって、この私の思想上の変化以後は事件に対して無理をしないということに帰着したのであります。
 なお、先般提出しておきました『忌避問題の経緯』と題する書面中昭和六年六月二十三日及び六月二十九日の公判における垂水裁判長と刑事被告藤田喜一との応答の記載はこの書面の通りと存じますが、その応答中の藤田健一の弁護人に「公判廷に出廷をしてくれと頼んでおいたが出廷をしてくれません。」という供述は事実に反するものでありまして、自分ならびに他の弁護人は藤田から公判に立会してくれと要求された事はないのであります。
 また、辞任をしてくれと要求を受けたることもないのであります。
 なお、その点を詳しく説明いたしますと、藤田が田村弁護士を通して私の出廷を求めたのは六月二十五日でありますから、その前の二十三日に私に何らの交渉もないことは明白でありますから藤田の供述が誤りであることになります。
   被告人 今村力三郎
 右読み聞かせたところ相違がないと答えたので、署名捺印させた
  昭和七年二月二十九日
  於 東京控訴院における懲戒裁判所

 
 今村力三郎の訴訟記録について、以下のことを付け加えたい。
 「大逆事件」の公判記録を初めとする一切の関係書類は、国家の意思により裁判終了直後、回収され、焼却された。しかし、国家が権力でその痕をを隠滅し尽くすかのようにに思われた〈史実〉を数々の人々が堀り起こしてきた。戦前・戦後を通して、身の危険を冒して記録を残してきたというのである。ここにも、弁護人今村がいる。また、鈴木義男らの弁護士の貢献もある(大原慧「「大逆事件」再審請求と坂本清馬」『坂本清馬自伝 大逆事件を生きる』(新人物往来社、一九七六年)。今村の訴訟記録は、かくして大逆事件が国家による壮大な冤罪事件でるあるとの〈史実〉を確証し、刻印する貴重な資料なのである。