長岡高校と河井継之助・山本五十六

        
   長岡と河井継之助山本五十六

 高校生活は、長岡高校(長岡中学)でした。
 「米百俵」で創設された学校です。
ここでは、その思い出を一つだけ書くことにいたします。
今はない古い講堂の両側に、2枚の人物像が掲げてありました。河井継之助山本五十六です。高校当時には、河井継之助という人間を理解しようなどとも思いませんでした。相当に鈍感でありました。ところが、大学院の時期に、この蒼龍窟に関する文章にふれ俄然と興味を抱き始めたのです。その後、中野好夫「蒼龍屈」『世界史の十二の出来事』(新潮社、1954)や、司馬遼太郎の 『峠』などにも書きしるされ、俄かに蒼龍窟も人気者となりました。私は、子どもを連れて奥会津の只見町にある墓にも行きましたし、彼の末期を看取った医師が矢沢であるとの誼で、さらに興味も持ちました。江戸末期の混乱期に、中立の立場を模索する卓絶した人間でありました。
 今1人が、2008年12月2日の朝日新聞の夕刊で「述志」の紹介があった山本五十六です。高校時代から、彼が太平洋戦争に反対していた事は、生徒のほとんどの知るところであり、反対していた戦争の連合艦隊司令長官として指揮せざるをえなかった慚愧な思いは、後輩としても共感できるものでありました。
  その決意は、
 「誰か至誠一貫論を排し斃れて後已むの難期を知らむ」
 「此身滅すへし此志奪うべからず」