裁判員裁判で無罪になっても,高裁で無罪破棄 !

 私は、2007年7月20日、WESTLAW  JAPAN のコラムで、
 以下のように述べた。
 
 「7月11日の朝日新聞の『一審の判断「尊重を」』と題する記事を読み驚愕した。ことは5月に導入された裁判員制度に係わる。裁判員が加わって導いた結論を裁判官だけで審理する控訴審で覆してもいいのか。これが命題となり、東京高裁で刑事事件の裁判長を務める12名の部総括判事全員の意見を反映して書かれた法律雑誌での共通認識とは、「一審の判断をできるだけ尊重すべきだ」というのである。蛇足ながら、その理由とは、「控訴審が一審判決へ介入し、破棄や差し戻しを繰り返せば、制度の存在意義が失われかねない」からであるという。
 しかしながら、これらの人々の共通認識には、根本的な疑問を覚えざるをえないのである。憲法76条3項を想起されたい。「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法および法律にのみ拘束される」と定めている。何故、高裁の裁判官は、裁判員が介在した一審の判断を特に重視しなければならないのか。裁判員が介在しない判断がなぜ軽視されうるというのか。裁判官が第一審の判断に拘束される理由はあり得ないはずである。裁判をする者は良心に従い、独立して裁判をすべきではないのか。東京高裁部総括判事の共通認識は、この憲法の規定をむししてまで、また、良心を棄てて、独立を断念して裁判員の介在した判断に唯々諾々と追随することをよしとすると読めないか。憲法精神に反しても、こうしなければならないとさせた理由は一体何であろうか」。

そして,2011年4月
裁判員裁判で無罪になった被告に対して、東京高裁は、この判決を破棄して、懲役刑を言い渡した。
 この意味を考える必要がある。
 そもそも、裁判員制度の導入の意図は何であったのか。
 検察官による立証について、裁判員は、その事実認定に否定的な結論を下したのである。
 世間の常識に疎い裁判官を、国民の司法参加により補完する事ではなかったか。
 東京高裁の裁判官が「一審の判断を尊重する」という公言は何であったのか。

 朝日新聞2011年4月7日の社説を読みながら、
 裁判員制度に、また、一つ疑問を覚えた。
 裁判員裁判で有罪とした判決を覆すことができる裁判官がいるのだろうか。