齊藤ヒデさん お悔やみ

 冤罪松山事件の齊藤幸夫さんのお母さんが亡くなられた。
 お悔やみ申し上げます。


 冬の仙台と松山事件 
 真に言い訳けがましいのです。私は、熊本大学に赴任するする前、仙台で大学院時代を過ごしました。研究室から北門から真っすぐ町に出ると南町、そこに地元の藤崎というデパートがあるのです。ある雪の降る冬の頃、その玄関の前で、一人の女性が訴えていました。通る度に、多分毎日のように。募金のためのザルが置いてありました。
 実は、この前亡くなられた、松山事件の斉藤幸夫さんのお母さん斉藤ヒデさんだったことを後で知りました。私は、当時、冤罪や再審問題にも関心もありませんでした。熊本から専修大学のある東京に参りまして、弁護士登録をした16年ほど前にようやく、再審に関心を持ち始めました。大学院時代の先生であり、後に同僚となられる小田中聰樹先生が松山事件を始め再審運動でいかにご尽力しておられたを随分後からになって知ったに過ぎません。同じく、庭山英雄先生も渾身の力を込めて、狭山事件をはじめとする冤罪に取り組んでこられたことに敬意を表している次第です。

 私の作成した『冤罪』ファイルより
 ○松山事件
:放火殺人にかかる冤罪事件。発生から29年後,再審による無罪判決。
http://gonta13.at.infoseek.co.jp/newpage127.htm
 http://www.nichibenren.or.jp/ja/opinion/statement/1983_1.html
 http://www.nichibenren.or.jp/ja/opinion/statement/1984_5.html
 
 1955年10月18日,宮城県志田郡松山町の農家が全焼し,焼け跡からこの家に住む一家4人の他殺体が発見された。同年12月8日,別件で逮捕されていた肉屋店員の斉藤幸夫(S,24)を犯人として,強盗殺人・放火の疑いで逮捕,12月30日に起訴した。

 1957年10月29日,仙台地裁で死刑判決。1959年5月26日に仙台高裁で控訴が棄却。1960年11月1日に最高裁で上告が棄却,死刑確定。男性は無罪を訴えて再審請求をし,第2次再審請求が認められて1979年12月6日に再審が開始。証拠とされた男性の掛け布団の血痕は,警察の捏造と断ぜられた。1984年7月11日,無罪判決が言い渡された,国家賠償請求訴訟を起こしたが2001年に最高裁で敗訴が確定。長期間死刑囚として過ごさざるを得なかったため,年金は受給されず生活保護受給者となっていた。齊藤幸夫さんは2006年7月4日,多臓器不全のため死去した。享年75歳。

 
【松山事件に関する文献】

青地晨 「松山事件」(『魔の時間 六つの冤罪事件』(社会思想社 現代教養文庫,1980)所収)
佐久間哲夫 「島田事件と松山事件」(『恐るべき証人−東大法医学教室の事件簿』(悠飛社,1991)所収)
小田中聰樹 『冤罪はこうして作られる』(講談社現代新書,1993)
木下厚 『つくられた死刑囚〜再審・松山事件の全貌〜』(評伝社,1984
佐藤秀郎 『最後の大冤罪「松山事件」』(現代史出版会徳間書店1984
佐藤一 『松山事件』(大和書房,1978)
菅原利雄 『現場鑑識と布団襟当の血痕 松山事件再審無罪事件を顧りみて』(非売品,1988)
中山雅城 『検証冤罪−帝銀事件・八海事件・松山事件』(文芸社,2003)
吉田タキノ 『炎と血の証言』(理論社,1966)
吉田タキノ 『山と川の接点』(日本国民救援会宮城県本部他,1967)
吉田タキノ 『裁かれるのはだれか』(けやき書房,1985)